リコーは、理化学研究所の研究開発を工業化するために設立された「理化学興業株式会社」から感光紙事業を継承し、1936年に「理研感光紙株式会社」として創業しました。翌年にはカメラ事業にも進出。 1950 年代初頭にカメラの大量生産体制をわが国で初めて確立し、一般大衆へのカメラの普及を促進しました。1955年にはリコピー101を発売し、事務機分野にも進出しました。
財団法人理化学研究所における発明の工業化を目的とする理化学興業株式会社から独立し、理研感光紙株式会社として設立。資本金35万円(~1938年)。市村清専務取締役就任(~1946年1月11日)
さらに詳しくわが国の科学振興を目的に創設された理化学研究所はその研究成果の事業化を図るために1927年「理化学興業株式会社」を設立、ここから多くの理研製品が発売されていきました。同社の感光紙事業を大きく発展させたのがリコーの創業者、市村清(1900~1968)です。彼は感光紙部門いっさいの事業を継承し、1936年2月6日にリコーのルーツである理研感光紙株式会社を設立。資本金35万円、従業員33名の出発でした。
創業の精神として市村が提唱した「三愛精神(人を愛し 国を愛し 勤めを愛す)」は、事業・仕事を通じて、自らとその家族、顧客、関係者、社会のすべてを豊かにすることを目指した考えで、今もリコーグループの全社員が経営や仕事を行ううえでの原点としているものです。
商号を理研光学工業株式会社に変更(~1963年)
市村清社長就任(~1968年12月16日)
カメラの大衆化の先駆け、リコーフレックスを発売
さらに詳しく関係会社旭精密機器工業株式会社および愛光商事株式会社を吸収合併し、東京都大田区に大森工場を設立。カメラの製造を再開
ジアゾ複写機の1号機リコピー101を発売。事務機器分野へ進出
さらに詳しく1950年代後半、「複写する」という代わりに「リコピーする」という言葉が生まれ、複写の代名詞として広く普及しました。そのルーツは、1955年発売の「リコピー101」です。リコピー101とそれに続く一連の卓上型ジアゾ湿式複写機リコピーシリーズは、オフィスオートメーション(OA)のさきがけとして事務作業の合理化に革命をもたらしました。同機は、一般社団法人日本機械学会から2012年度「機械遺産」第54号に認定されました。
カメラの大量生産体制をわが国で初めて確立。大河内記念生産賞受賞
韓国に合弁会社シンドー交易を設立(1970年、株式会社シンドリコーに社名変更)
事務機用オフセット印刷機の1号機 リコーオフセットB4を発売
大阪・池田市に感光紙の専門工場、大阪工場を設立
沼津工場に感光紙工場を竣工。製紙から感光紙の一貫生産体制を確立
さらに詳しく本社事務機工場・総合研究所大森に本社事務機工場と総合研究所を竣工
さらに詳しくハーフサイズの大ヒット作となったリコーオートハーフを発売
さらに詳しく1960年には国産初の自動露出EEカメラ「リコーオート35」を完成したリコーは、1962年にはフィルムの巻き上げも自動化し、完全に押すだけで写るハーフサイズカメラ「リコーオートハーフ」を発売。ハンドバッグに入る、実用カメラとしては当時世界最小サイズの自動化カメラとして、女性ユーザーの拡大にも大きく寄与しました。
アメリカに現地法人Ricoh Industries, U.S.A., Inc.を設立
社名を株式会社リコーに変更
さらに詳しくスイスに現地法人Ricoh (Europe) S.A.を設立
台湾に合弁会社「台湾理光股 有限公司」を設立
静電複写機 電子リコピーBS-1を発売
さらに詳しく東北リコー株式会社を宮城県柴田郡に設立
草加リコー株式会社を埼玉県八潮市に設立(1972年1月、リコー特機株式会社、1990年4月、リコーユニテクノ株式会社に社名変更)
創業者市村清社長逝去(16日)
舘林三喜男社長就任(~1976年10月22日)