柴田勝家×EDUCATION
ストーリー1/3
なにを以て?:柴田勝家
October 1, 2015
SF作家・柴田勝家さんが想像する、2036年の「教育」を全7回(短編小説4本+対談記事3本)にわたって紹介。短編小説の本編(1/3)となる本記事。多様な科目を好きな場所で自由に学べる時代に、とある女子高校生が選んだ科目は、時代遅れの「漢字・書道講座」。その理由とは……?
だれかの授業
私にとって学校っていうのは、非常に古臭くて辛気臭くて胡散臭い、とにもかくにもクサい場所だった。
子供の頃に見た漫画の影響かな? 同じ年頃の人間が一箇所に固まって、一人の人間の言葉に頷き続ける光景が嫌いだった。
誰かの言葉を一字一句真似て、自分のものとしていく。ひな鳥が親鳥の動きを模倣するのと同じ。でも結局、空を飛ぶ鳥は骨格から何から飛ぶ為に造られている訳で、必要な場面が来れば嫌でも羽ばたかなくてはいけない。
それは人間も同じで、結局は誰かに何かを学ぶというのは社会への礼儀みたいなもので、本当に必要な場面が来れば嫌でも学ぶというものなのだ。だったら学校なんて意味なくない?
私はベンチに腰掛けたまま、ヘッドホンから伸びたケーブルを背後の噴水に浸す。球形噴水の中で拡張ホロが散乱し、その一部がヘッドホンから投射されて目の前に飛び出してくる。様々な情報を映すそれらを無視しつつ、私は学習と記されたタブに視線を合わせる。
同級生の数人は今も真っ白な部屋に詰めて、討論を中心にした授業を受けていることだろう。それはそれで大事なことかもしれないけど、私にとっては苦手なもの。だからって私が校舎を抜けだそうとも、ことさらに目立つこともない。街中の公園、社会のあらゆる場所は公教育の場。私以外にも色んな人達が液相コンピュータに接続して、各々の伝水路――チャンネル――を開いて学習の機会を設けている。
私は真面目な女子高生として、今日も今日とて自分の興味関心の赴くままに勉強する。スクーリングを重視する先生は怒ったりもするけれど、それこそ古い考えだと思っている。標準課程の授業なら問題なく終わらせてるし、私の傾向に合わせて教育プランナーから今後のカリキュラムもサジェストされている。
必要な場面が来れば、私は私なりに、学習をするのだから。
私だけの授業
私は拡張ホロに表示された多種多様な自由学習科目を目で追っていく。
今までの自由学習の範囲で選んだチャンネルは、ダンスと絵画、アプリケーション開発、近代アメリカ音楽史、タイル貼り講座……とかとか。趣味と実用の兼ね合いを考えつつ、学校で認定されるものを選んできたつもり。
とはいえ、一年の学習計画内で申請可能なチャンネルの容量は決まっている。今回、こないだまで登録していたドイツ菓子作りのチャンネルが満了したので、その枠に新しく授業を入れられる。
多くの生徒に人気の資格教諭もいいけれど、私はもっと地味な感じで静かにやっていきたい。音楽は好きだけどかぶりがち。他の技術系に割り振っておきたいけれど、あまり増やすと課題が多くて手一杯。また別のお菓子作り? ううん、前回のは散々な結果だったじゃない。
それじゃあ、と、私が検索条件に加えたのは「参照値の低さ」だった。人気の授業や有名人の授業を探しても目新しいものはない。それならいっそ、極端に人気のないものや、未だに人に知られていない珍しいものに手をつけるのも悪くない。
そして、ふと見つけたそれは「漢字・書道講座」なんていう古臭い言葉の羅列。国語は好きだし、興味が無い訳じゃないけど、わざわざ漢字を書いて学ぶなんて。って、そんな風に切り捨てようとしたところで、私はその人の名前を見つけた。
授業登録者の中に見慣れた文字。私の友人、ううん、まだ知り合いかな。ロシア人留学生の彼。通っている学校は違うけれど、自由学習では何度か顔を合わせている。ああ、彼もこれを取るんだ、って。
そんな簡単な理由で、私はその授業を登録した。