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第四章 プロジェクトメンバー座談会

セーブ・ザ・メモリー・プロジェクトが気づかせてくれたもの。

2011年4月にスタートしたセーブ・ザ・メモリー・プロジェクト(以下プロジェクト)は、総数41万8721枚の写真修復・デジタル化と9万1477枚の返却という実績を残して、2015年3月にすべての活動を終えた。この間リコーグループのボランティアは延べ518名にのぼる。本章では、プロジェクトで中心的役割を果たしたメンバー5名による活動の振り返りを行う。

生方秀直(うぶかた・ひでなお)

生方秀直(うぶかた・ひでなお)

(株)リコー 技術経営センター

プロジェクトの発起人でありリーダー。震災発生当時に写真関連事業を含めた新規事業開発部門のリーダーを務めていたことも契機となって自らプロジェクトを立ち上げ、活動全体を牽引し続けてきた。

藁谷瑞栄(わらや・みずえい)

藁谷瑞栄(わらや・みずえい)

リコージャパン(株) MA事業本部

震災発生時福島県に在住。リコージャパン東北営業本部(宮城県仙台市)からプロジェクトに参加。コアメンバー唯一の現地スタッフとして「ファクトリー名取」での実務から、女川町(宮城県)、亘理町(宮城県)、南相馬市(福島県)の各写真センターのフロントを務めた。

中本映子(なかもと・えいこ)

中本映子(なかもと・えいこ)

(株)リコー サスティナビリティ推進本部

当初は企業の社会的責任(CSR)を担う部門で活動を支援。その後新規事業開発部門に異動したことを契機にコアメンバーとなる。プロジェクトのリコー本社サイド責任者として現地をバックアップ。「ファクトリー東京」(大田区大森)と「ファクトリー海老名」(神奈川県)の立ち上げと運営管理を担当。

菱沼大輔(ひしぬま・だいすけ)

菱沼大輔(ひしぬま・だいすけ)

(株)リコー コーポレート統括本部

新規事業開発部門でクラウドストレージサービスの事業展開に携わっていたことでコアメンバーの一員となった。現地の活動拠点である「ファクトリー名取」(宮城県)の常駐メンバーとして写真修復に携わったほか、「南三陸町写真センター」(宮城県)の立ち上げとフロントも担当。

朝夷隆晴(あさひな・たかはる)

朝夷隆晴(あさひな・たかはる)

(株)リコー コーポレート統括本部

新規事業開発部門で全天球カメラ(RICOH THETA)のマーケティングを担当。コアメンバーとして「ファクトリー名取」に常駐して写真修復に携わったほか、「陸前高田市写真センター」(岩手県)の立ち上げとフロントを受け持った。


ちょうど良かった、一緒にやろう

生方
セーブ・ザ・メモリー・プロジェクト(以下プロジェクト)の発起人ということで、まずは私が口火を切らせていただきます。2011年当時、私はコンシューマ向けのクラウドストレージサービス「クオンプ」(quanp)や、全天球カメラ「RICOH THETA」(THETA)などを中心とする新規事業開発の推進をしていました。そんな中、震災が発生して、その一週間後、現地で写真回収がなされているというニュースを聞いて、写真に関わる事業に携わっている立場から何かお手伝いできないかと思ったのが、そもそもの発端でした。ただ、一個人のボランティアとして何かをするのは限界があるだろうな、と。
菱沼
生方さんは直後から「何かやろうや」と言っていましたよね。ぼくはその頃、部下として、イベント向けの写真共有サービスの事業を立ち上げていましたが、震災の影響でイベントが全部中止になって、ビジネスがストップした状態でした。そんな状況の中で、お客様だったイベント会社が被災地でボランティアをされていると聞き、自分も何かできないか、できることがあればすぐにでも始めたいと思っていたんです。
生方
政府が3月25日、震災に伴うがれき撤去に関して『アルバム、位牌など所有者個人にとって価値があるものは廃棄せず一時保管する』という内容のガイドラインを発表したんです。しかし、一時保管した写真をどうするのかは示されていなかった。おそらく一時保管される写真の量は膨大になるだろう、でも、それを長期間にわたって管理していくのは容易ではなさそうだと考え、これはリコーでやるべきではないかと思ったわけです。カメラ事業もやっているし、企業の社会的責任(CSR)への意識も高いのだから。そこで、すぐに提案書をまとめて、4月には経営トップの快諾を得たんです。その直後だったかな、菱沼くんが石巻に行きたいと言ってきたのは。
菱沼
そうです。先ほどのイベント会社が石巻で活動をしていると聞いたので、ぜひ自分もと思っていたところでした。で、生方さんに話をしたら「ちょうど良かった」と言われ、プロジェクトに参加することになりました。そして、プロジェクトの最初の活動として現地を見てくることになったんです。朝夷さんも一緒だったよね。
朝夷
はい。当時“THETA”の企画やマーケティングをしていたのですが、生方さんからプロジェクトを発足させるので参加してくれと言われ、二つ返事で応じました。現地の状況を目の当たりにして言葉を失ってしまいましたが、同時に、やれることはどんなことでもやりたいという思いが募りました。最初に現場を見たことが、私のその後の活動に大きく影響したと思います。
生方
菱沼くんと朝夷くんを最初に指名したのは、日頃一緒に仕事をしていて精神的にタフな奴らだと見込んだからです。そして、中本さんもこの頃に専任で参加表明してくれましたよね。
中本
専任は6月からです。3.11の時は、CSR部門で社会貢献活動やインドの農村部で新しいビジネスを発掘するBase of the Pyramid(BOP)活動などを担当していました。4月のプロジェクト発足と同時にCSRの立場で手伝いを始めて、2ヶ月後、生方さんの部署へ異動となったのを機にプロジェクトの専任スタッフとして関わることになったんです。


腰を据えて取り組もうと決めた

生方
とりあえずプロジェクトを立ち上げてはみたものの、まだ混乱が続いている時期で、何から手をつけたらいいのかわかりませんでした。いきなり会社として乗り込んでいっても迷惑になるので、現地のボランティア団体などに電話をして状況を教えてもらうなどしていましたが、いつ活動を開始できるかはまったく読めないままでした。このままではラチが明かないと判断して、現地へ飛んで情報収集することにしたんです。
中本
平行して、すでにグループ会社などへの働きかけも進めていましたよね。
生方
写真をデジタル化して保存するためのクラウドストレージの利用法や、検索ツールなどを含めたシステム環境をどう構築するかとか、グループ会社の人たちも交えて検討を進めていたんです。そうしている間に少しずつ現地の情報が集まり出して、さらに宮城県名取市にあるグループ会社の倉庫を借りられることになったので、そこを活動拠点に決めました。
菱沼
8月でしたよね。本格始動は。「ファクトリー名取」と名づけ、そこへ常駐して写真修復作業を始めることにした。以来、平日は現地に滞在して自宅に帰るのは週末だけという日々が続くことになったわけです。
生方
常駐は、当時の上司から「やるならとことんやれ」と背中を押してもらえたので決断したんです。会社全体が復興支援に傾注し始めた時期でもあった。一方で、この活動は長期戦になるだろうなと見込んでいたので、現地の社員で中心になってくれる人を探しておくことも必要だと思っていたところ、グループ会社の社長から「頼りになる人がいる」と、藁谷さんを紹介してもらいました。
藁谷
私はその頃、ソリューション商談のリスクマネジメントを担当していて、自分自身は津波の被害を受けませんでしたが、津波から命からがら逃れたという親戚もいました。一日も早い復旧・復興を果たしたいという気持ちもあったので、プロジェクトの話を伺って、お役に立てるならとメンバーになりました。
生方
藁谷さんには、ファクトリー名取での活動にとどまらず、その後の各写真センターでの取りまとめや、さらに後ほど触れますが「セーブ・ザ・メモリー・サービスパッケージ」の提供など、幅広く活躍してもらうことになりました。
藁谷
当初から軽い気持ちではできないなと思っていました。特に、10月に写真センターを開設することになった岩手県の陸前高田市の状況を目にした時には、これは1年や2年では終わらないぞと感じ、腰を据えてやらなければという気持ちになりましたね。これは、皆さんも同じような思いだったのではないですか?
中本
同感です。私は、生方さんたち主要メンバーがファクトリー名取の立ち上げで現地に常駐が決まったので、本社側スタッフとして支援活動を行うことになりましたが、現地の状況を聞かされて、これは相当の覚悟がいるなと。とにかく扱う写真の量が膨大で、しかも作業環境が厳しい上に、やるべきことは山ほどありましたから。


立ち止まらず走りながら考えよう

菱沼
まず作業インフラを整えるのに時間をとられましたね。物流倉庫の一角で、ネットワークを含めたインフラの構築から始めないといけなかった。
朝夷
立ち上げに先立って、写真の洗浄ノウハウの習得にも行きましたね。写真関連の会社が社員を集めて洗浄ボランティアをしていると聞いて、常駐組を含めた5名のメンバーで参加させていただこうよ、って。ビニール手袋をすることやネットに吊って乾燥する方法など、いろいろ丁寧に教えていただきましたね。
中本
スキャン用のデジタルコピー機はA3対応のリサイクル機を、リサイクル事業部門が提供してくれたんですよね。
菱沼
そうそう。ところが、いざ電源を入れたとたん、ブレーカーが落ちちゃった(笑)。普段あまり電気を使わない倉庫を借りていたので、コピー機を5台も同時に立ち上げたら容量オーバーになってしまって。
朝夷
一番つらかったのは暑さでしたね。日中最高40数℃にも達する中、エアコンもなく、工場で使う大型扇風機を見つけてきて回しましたが、とても間に合いません。皆、汗だくになって作業を続けましたよね。
菱沼
倉庫の所長が見かねて扇風機を追加してくれました。
朝夷
テーブルや椅子、それから細々した機材とかも全部グループ会社で用意してくれたんですよね。「他に必要なものがあったらいつでも言ってきてね」って。
生方
当初苦労したのは作業の流れをつくっていくところ。洗浄、乾燥、スキャン、データベース化という一連のプロセスをどう無駄なく進めていくか、そのリソース配分を見極めるまで少々時間がかかりましたね。手を止めて考える余裕はないので、まさに走りながら考えていくという状態だったから。修復作業はグループ会社のメンバーも加えた10名体制でスタートしたんですよね。
朝夷
一番時間が読めなかったのは洗浄するところ。アルバムの台紙に汚泥がこびりついて、剥がすのにかなり慎重さを要する写真もあれば、刷毛でさっと拭くだけで済んでしまうものもあって、所用時間が一様ではないんですよ。なので、最初はライン方式でやっていた作業を、途中から一人で受け持つセル方式に変更したんです。これで処理時間がだいぶ短縮されましたね。
菱沼
あと、乾燥があれほど時間がかかるとは思わなかった。苦心の様子は第二章にも書かれていますが、思いのほか手間を要しました。
生方
風通しを良くしなければと、乾燥スペースがどんどん広がっていった。
菱沼
毎晩集まっては課題点を出し合って、改善策を話し合いましたよね。
藁谷
スキャンでも圧版の問題だのいろいろ試行錯誤があったわけですが、前工程の時間が読めるようになったのと、作業慣れもあって、当初コピー機一台あたり一日に200枚程度だったものが最終的にはコンスタントに1,000枚処理できるまでになった。それでも追いつかない状況には変わりありませんでしたが。


このままでは間に合わない、助けて!

朝夷
回収された写真はすべて洗浄、乾燥して返却可能な状態にしましたけど、画像が欠落している写真とか、風景しか写っていないもの、顔がわからないものとかはスキャン対象から外すことにしましたよね。
菱沼
その基準もみんなで話し合って決めたんですよね。そして、スキャンするしないの見本をつくって、作業者がわかるよう貼り出しておくことにした。
中本
名取での負荷を軽減するために、私は「ファクトリー東京」を立ち上げました。9月に入ってすぐのことです。総務部門に掛け合って大森事業所(大田区大森)内に場所を設け、さらに人事部門にお願いをしてスタッフを確保しました。それから、立ち上げに際して何が必要なのか、名取へ出向いての情報収集もやりましたね。
生方
ファクトリー東京での洗浄作業が軌道に乗り出すと、一気に処理能力が上がりましたよね。お陰で名取はスキャンに専念できるようになった。
菱沼
ファクトリー東京の立ち上げでは、作業ノウハウを習得してもらうためにメンバーに名取へ来てもらいましたよね。
中本
4名を派遣しました。それでもまだ処理が間に合わないということで、翌年2月には「ファクトリー海老名」(神奈川県海老名市)を立ち上げました。その時はファクトリー東京のメンバー1名がノウハウ伝授に海老名へ出向いてもらったんですよね。
生方
専任スタッフ常駐での取り組みは2012年3月末で終了するという話になっていたので、結構焦っていましたよ。このままでは終わらないのではないかと。そこで急遽社員ボランティアの募集をかけたんです。募集のための申し込みシステムも開発して、円滑にボランティアを受け入れられる体制も整えました。年末には社員ボランティアも増えて、名取を立ち上げた頃に比べると作業速度は上がっていましたけど、それでも追いつかず、海老名にもファクトリーを設けてもらうことにしたんです。「中本さん助けて」と(笑)。
中本
その後も臨機応変、その場その場で手を打っていくという状態は続きましたよね。こうしたやり方は確かに大変ではあるのですが、一方でエキサイティングというかワクワク感もあって、今振り返ると、仕事のプロセスは楽しんでやっていたように思います。


価値観を一変させられた感動の体験

菱沼
ファクトリー東京が立ち上がったのと同じ時期に「南三陸町写真センター」(宮城県)を開設したと思うんですが。
生方
最初の写真センターですよね。でも、場所が「災害ボランティアセンター」の巨大なテントの中で、これから寒くなることを考えるととても続けられないだろうということで、コンテナハウスへ移ったり。南三陸町に限らず、場所の確保には苦労しっぱなしでしたよね。
朝夷
次に開設した「陸前高田市写真センター」は、スペースこそ広かったものの、高台で中心部から離れた場所にあって。これでは写真を探しにくる方には不便だということで、場所を変えましたよね。
藁谷
最後にオープンした「南相馬市写真センター」(福島県)でも場所探しが悩みの種でしたね。最初はゴミ焼却場の脇の事務所で、その後はなかなか場所が決まらず、開設が遅れました。
朝夷
写真センターの開設は活動の転機になりましたよね。弱音を吐くわけではありませんが、写真修復は精神的に結構キツイ仕事でした。作業内容ではなく、写真を目にするのがつらくて。泥だらけでバクテリアに浸食された中から洗浄で笑顔が浮かんでくるわけですよ。家族との幸せそうな表情を見て、果たしてその人が無事なのかどうか、あれこれ考えてしまって……。そうした中で南三陸町と陸前高田市に写真センターがオープンして、それまで写真センターを訪問する機会のなかった名取のスタッフをつれていったんです。10月でした。行ったことで、みんなの気持ちもがらりと変わりましたね。キツイ現実は同じですが、自分のやっていることが今、だれかの笑顔につながっていると気づいたんです。
菱沼
ぼくにとっても写真センターを訪れたことは一つの転機になりました。実は、修復作業している中で、画像が欠損してしまった写真も多く、果たしてこれは必要だろうかと思ったこともありました。ところが、写真センターに置いてあった感想ノートを読んで、こんなに喜んでくれる人がいるんだ、写真の価値は写り具合や状態の良し悪しではないんだと。写真に対する価値観が一変しました。
藁谷
私も、写真を手にできた人たちの喜ぶ姿に接して励まされると同時に、改めてこの活動に参加して良かったと実感しましたね。それと写真の持つ力というのでしょうか、まさにセーブ・ザ・メモリーだと。
生方
ノートに「結婚式のスライドで使う予定だった写真が津波ですべて流されてしまった。でも、ここで数枚でも見つかって本当にうれしい」というコメントがあって、私も写真が思い出と未来をつないでいると気づかされました。写真に関する仕事をいろいろしてきましたが、写真の持つ価値をこれほどリアルに感じさせられたのは初めての経験でした。プロジェクトに関わる一人として、人が生きていた証としての写真を扱っているんだと、改めて身の引き締まる思いがしました。
菱沼
中には「30年間仕事をしてきてこんなに感謝されたことはない」と言うメンバーもいました。大袈裟でなく、それほどみんな強い感銘を受けたんです。
朝夷
名取のスタッフも、最後の追い込みには「残ってやります」と自ら手を挙げて、夜遅くまで作業を続けてくれて……。あの時はちょっと胸が熱くなりました。


活動の持続を願って取り組んだこと

生方
作業が軌道に乗り始めたのは12月頃からでしょうか。東京からの常駐者も、常時3名が張り付く体制から、一人一週間ずつで交替するシフト制に変えましたよね。
藁谷
写真センターでの取り組みを話すと、これも手を動かしながら考えていくというやり方で臨みましたね。パソコンでの検索システムも、最初は高齢者には扱いにくく、実際に操作している様子を見て、「指一本で操作できるものに改良する必要があるよね」と。どうしたら返却効率を向上させることができるのか、頻繁に対策会議を開いて改善を重ねていったんですよね。
生方
そうした改善も、現地でできるものは現地で、不可能なことは中本さんに連絡をして「頼む!」と(笑)。この連携がうまく機能したのもプロジェクトの特徴でしたね。
藁谷
写真の返却率が劇的に高まったのは、2012年9月にNECさんの顔検索システム(Neo Face)を導入してからですね。
菱沼
何千枚もの中から探し出すのは至難の業でしたから。特に高齢の方は途中で疲れた、全部見切れないという方がほとんどだったと思います。どこまで確認したかをマークするしおり機能を設けたりもしましたが、目で追っていく負荷は大きかった。それがNeo Faceで大幅に軽減され、検索効率が飛躍的に高まりました。ツールの威力を実感させられましたね。
生方
そういう意味では、今度のプロジェクトは時代性というものを感じますね。つまり、デジタル技術が発達している今だからこそ可能なことが多かったと思うんです。コンピューターの性能然り、携帯電話然り、ネットワーク環境然り。しかも安価に使える時代になっていました。さらに、SNSの浸透で人と人とのつながりもつくりやすくなってきた。もし10年前だったら、もっと苦労させられたに違いない。そうした技術の恩恵によって可能になったことがたくさんあって、そこに我々の創意工夫と言うか試行錯誤をONすることで、このプロジェクトを成り立たせることができたんじゃないかな。
菱沼
その通りだと思います。それもあって、2012年3月に会社としての支援を終えるのに合わせて「セーブ・ザ・メモリー・サービスパッケージ」(サービスパッケージ)(*)としてまとめることができたのだと思います。
* セーブ・ザ・メモリー・サービスパッケージ:写真回収活動を自治体やボランティア団体が継続できるよう、クラウドストレージや検索ツール、修復に必要な道具類、デジタルコピー機といった環境一式と、プロジェクト活動で得たノウハウをパッケージングしたもの。
生方
このアイデアも我々の中から自然発生的に出てきたものですよね。この活動は何よりも持続性が大事だと思っていたので、「環境やノウハウをワンパッケージで提供できたらいいよね」という話になって。藁谷さんがいるので提供を担当してもらえるし、と。
藁谷
2012年9月に開設した「亘理町写真センター」(宮城県)と、10月開設の「南相馬市写真センター」は、このサービスパッケージを利用して立ち上げたんです。
中本
責任の所在が明確なところではサービスパッケージを歓迎してもらえたと思います。写真返却に向けてリソースを投じていくのか否か、それぞれ対応が分かれましたね。
生方
確かに。写真の扱いは自治体によってばらつきがありましたね。まだまだそこまで手が回らないという現実もあったのですが、組織が責任を持って引き受けてくれたところとそうでないところでは、その後の活動の進展に差が生じたように思います。


プロジェクトで育まれた精神は一人ひとりの心の中に

菱沼
2012年4月以降は、会社が前面に出ての支援はなくなったものの、プロジェクトは継続されました。それは、コアメンバーであった朝夷さんや中本さん、そしてぼくも生方さんの部署に所属していた上に、現地には藁谷さんもいたので続けやすかったということもありますよね。
生方
会社のカルチャーとしても社員の自主的な活動を歓迎するというところがあるので、やりやすかった。
藁谷
現地の動きとして、我々が展開しているソリューション商談のリスクマネジメントを復興にどう役立てていくのかという観点での取り組みも始まっていました。ボランティアとしてお手伝いさせていただく段階から、ビジネスを通して復興支援する段階に移行していったんです。
生方
それが可能になった要因として、一年間暗中模索でファクトリーと写真センターを立ち上げ、それが軌道に乗り始めていたこと、さらに、それを他の地域でも展開できるようサービスパッケージにして残したことが挙げられると思います。
中本
もう一つ付け加えるなら、ボランティア同士のノウハウ伝搬の動きもあったと思います。私たちがファクトリー東京を立ち上げる際に名取の活動を学び、次に海老名へと展開していったのと同じことが、その後、亘理町や南相馬市でも行われていきました。
生方
私はそれを“善意の拡散”と捉えているんです。今回の活動で痛感させられたのは、世の中には善意が集まっているということ、その善意をつなげていけば、社会を動かす力になるということでした。私にとって、世の中にこれほど善意が溢れていると気づかされる機会を得られたことが、今回の活動の一番の成果だと感じています。同時に、新しい事業を起こしていく上で大きな示唆をもらえたと思っています。
菱沼
自分自身の気づきという点では、一歩踏み出す勇気を持つことの必要性を実感しました。とにかくやってみる、自分から動いてみると、それによって周囲も動き始めるという場面をたくさん経験してきました。もう一つは、リーダーシップの重要性です。今回社内外の多くの人たちと一緒に活動してきましたが、その第一歩を踏み出せたのも、志を持って「この指止まれ」と指を高く掲げた人がいたからだと思うんです。
朝夷
私の場合、仕事で“THETA”の企画を立ち上げている最中にプロジェクトに参加したわけですが、一枚の写真が持つ価値を実感できたという点で、活動の影響は非常に大きかったと思います。人が写真に込める思い、あるいはその時は何気なく撮ったものでも後々それを見て思いをはせる、そこから、その場の雰囲気をワンショットで切り取ることの意義を再認識させられました。したがって、この活動に参加できたことに対して、感謝の気持ちでいっぱいです。
藁谷
写真センターを訪れる方々や、同じようなボランティアに携わっておられる方の中にはご自身や知り合いが被災した人がほとんどで、そうした人たちと話をしていると、当事者とそうでない人とでは受け止め方がまったく違うんです。それは、仕事をしている時も同様で、案件の当事者かどうかで対応の姿勢が違ってくる。当事者意識を持っている方に誠心誠意最善のソリューションを提供しなければと、今一度気を引き締めているところです。
中本
今回の活動を振り返って思うのは、ものすごいボリュームの仕事を、ものすごいスピードでやり遂げたということです。この先どうなるのかわからないという場面にもたびたび遭遇しましたが、それを突破できたのは、全員が心を一つにして本気で取り組んだからではないでしょうか。仕事もこのようなやり方でチャレンジをしていくならば、きっと楽しく成功に近づけるようになるはずだと考えています。
生方
活動したことがボランティアに終わらず、その後の仕事に生きているという点ではみんな共通していますよね。生涯忘れられない貴重な体験ができた、その意味で、これは私たち自身にとってのセーブ・ザ・メモリーでもあったんですね。

(2015年4月:リコーテクノロジーセンターにて)